私は金沢の出身であるから、若い頃からご当地の文人として泉鏡花と室生犀星については教えられたものの、その頃はよくわかっていなかったというか、超有名どころと比べるとやはり一段落ちるんじゃないのと思ったりもしたものです。いや、今思うと素人の浅はかさでありまして、室生犀星についてはいまだによく知らないものの、泉鏡花に関しては、空前絶後、他の日本の小説家の座標から離れて存在する唯一無二であると思い始めたのであります。いや、わかってなかった。。。まだわかっていないけど。
泉鏡花であればほとんどすべての小説を青空文庫で読むことができるんだけど、うーん、やはり文庫本で読みたいオールドな人間でございます。というわけで、名作と名高そうな「春昼・春昼後刻」を読んだ。あー、題名どおり、春の昼の話ですが、とろける。
これは「春昼」「春昼後刻」という2つの中篇からなります。「春昼後刻」は「春昼」と時間的につながるので続編とも言えるのですが、内容的には深く絡まっていて、また構成的には逆に対を成します。春ののどかな雰囲気から始りながら、だんだんと怪しい雰囲気が漂ってくるところがたまらんです。僧によって語られる客人の話が具体的なのですが、後刻での女性は、ほほほ。とほのめかすだけで、彼とどのようであったのかは語られず、そこは妄想するしかないところがうまい。で、いつの間にか第三者であったはずの散策子がまるでその相手のように思われてきて(似ていると書かれている)、その後全体を思い返すと、まるで全体が最初から異界に踏み込んだかのように思われてくるところがうますぎるです。もちろん、「何が起こったか」は書かれていないし解釈もいろいろありそうなので、小説に唯一解を求める人は読まないほうがよろしい。
帳面に書き散らかされている○△□がいやに怖いですな。この作品では現実と異界との界面が微妙にあいまいに思えてくるのがおもしろいです。角兵衛獅子の子供に「私の児かも知れないんですよ」といったり、○△□の落書きの余白のうた、君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし、という和泉式部のうたがその児を一緒につれていったのかと思うとぞっとするです。いや泉鏡花の女性は、あうだけですでに異界なのですが。
後から思うと、全体が能の舞台のような構成になっていて、「春昼」が前場、中入りがあって「春昼後刻」が後場となっているのでしょう。したがって、ご新造がシテで後刻に直接現れるのもうなずけます。また遠くで鳴っている駅の笛太鼓は舞台のお囃子にあたるのだろう。三番目物の現在能とみることもできるけど、ご新造さんはもはや異界の女であって、夢幻能と見るほうが良い気もする。
もちろん、まだ一読であんまりわかっていないことも多いので、少し間をおいて二読三読してみたいと思える作品でした。
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