カルロス・フエンテスはメキシコの作家で今年亡くなりました。いくつか読んでいるんだけど、ラテンアメリカ文学の中で、そこまで好きだというわけでもない。というかまだ代表作を読んでいないような気もするけど。「アウラ」とか「遠い家族」とか「老いぼれグリンゴ」は読んだのですが、「脱皮」や「アルテミオ・クルスの死」などは積んだままになっている。どちらかというと「アウラ」とか「遠い家族」のようなゴシック的シュールなやつが好きなので、「誕生日」は向いている方かもしれない。
で、この「誕生日」は、最初から視点と設定がよくわからないままに、テキストが進む中で自分で再構築しなければならない小説である。テキストは(たぶん)私の語りが点線で分割されているのだが、この分割は時間の切れ目というか歪みを表しているような雰囲気で、ラテンアメリカ文学では有名なマジックリアリズムというよりはシュールリアリズムとゴシック調のように感じられる。そして読み進むにつれて、私の語りであるはずが、もう一人の私がずれた時間軸の中で体験を共有し、前世や未来を幻視、体験しながらウネッテいく物語であります。私の時間、他人の時間、生物の時間、世界の時間がゆるゆると繋がる感じがおもしろい。もっともキリスト教的な考え方に対する相対化みたいなものもあるんだけど、こちらとしては一神教にはもともと慣れていないので、そのあたりは普通ジャンと思ってみたり。もっとも、そういう宗教的・哲学的な時間考察を超えて、最後に「女はすべてを超えています」とくるところに笑った。つうかすごいと思いました。
私ともう一人の私というのは「老いぼれグリンゴ」や「遠い家族」にもでてきた感もあるんだけど、あちらでは一要素だったものがこちらでは主題になっている感じです。このような時間の螺旋性や転生といった感覚とテキストの記述法では筒井康隆の「驚愕の曠野」を思い出した。なんちゅうか世界の螺旋性では筒井康隆の作品の方が場外ホームランだったので凄いと思うのだが、作品発表の時期をみると「誕生日」の影響を受けているんだろうか。
そういえば、某サイトで「フエンテスは見切った、実際にはかなり簡単な話で、ある家で起きた殺人だか一家心中だかのような事件があって、その死に至るまでの短い時間の中に、ありとあらゆる時空間のできごとが幾重にも折り重ねられているという小説だ」と書かれているのだが、あまりに読めていないのに笑った。全然違うし。
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