●通りすがりの男
フリオ・コルタサル(Julio Cortazar)はアルゼンチンの作家で、幻想的な短編の名手です。いや長編の「石蹴り遊び」も有名なわけですが。「通りすがりの男」(現代企画室)は1977年出版のコルタサルの短編集ですが、十年ぶりくらいで読み直しました。
コルタサルの短編は幻想的なものが多いのですが、特に後期のものは微妙な書き方をしているので、あらゆる可能性を考えないと何も気付かないままに終わって、「何だこの話は?」となります。各短編毎に感想を書いてみますが、読む気のある人は見ないほうが良いかもしれません。が、コルタサルに慣れていない人は逆に見てからでないと糸口すらもわからないかもしれません。この短編集の場合は、後書きで各短編の解説がないことと、後期の作風なのでより一層理解が困難です。以下のものは個人的な解釈。十年前はわかっていなかったことが多いような気がする。十年後にもう一度他の見方も増えているのだろうか?
「光の加減」
最後の男を自分自身であると見るかどうかで、相当解釈が変わってきます。「僕は理解できない」のは、自分というものが空虚になってしまっているかもしれない状況、それは彼女を作り上げたときの空虚さの裏返しでもあります。ほんの少しの光の加減で物語の色合いが変わってしまう姿を楽しみます。
「貿易風」
前の短編に続いて、自分と他者の境界が一変するところにおもしろみがあります。最後の部分は2重に解釈(本当に両方のカップルの描写と取れないこともない)できますが、やはり自己が他者に侵食されて戻れなくなった二人と見た方が良いのでしょう。
「二度目」
けっこうストレートで初期のようなお話。冒頭と最後ののんびりした事務的な雰囲気がよい。神の使いなのか死神の事務所なのかわからないが、単に事務的に処理して、処理内容には全く興味を持っていないところがCool!
「あなたはお前のかたわらに横たわった」
あなたとお前という母と子の近親相姦的な関係をどこまで読み取れるかで、おもしろさが変わります。「あなた」は息子が彼女を作るのを応援しているようでいて、無意識的に壊そうとしていること。お互いに今の関係を終わらせるべきだと認識していること(特に息子は15才から)。人称が1人称でも3人称でもなく両方2人称であるところが、二人が同じ位置に属することと曖昧な関係を暗示し、それに対してリリアンは明確な第3者であるが最後に割り込むことで二人の関係の終わりを示します。原作ではスペイン語で2人称は区別して記述されているのでしょうか?
「ボビーの名において」
これも語り手である「私」の子供に対する想いと姉への想いがつかめないとおもしろくありません。「長いナイフをわかるようにおいてあった」あたりは慄然としますが、それはボビーに対してではなく「私」に対してです。子供を持ちたくても持つことのできなかった「私」。
「ソレンティナーメ・アポカリプス」
この作品集にしては相当ストレートに書いているのは、ロケ・ダルトンへのレクイエムの意味もあったのでしょう。怒りがそのままの形ででているので、コルタサルには珍しいかも。
「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」
昔の小説テキストにあとから登場人物の視点からの独白が付け加えられる形式になっています。その独白を除いて読むと、普通の女主人公の旅と心の動きを描く小説になりますが、独白がはいることで、その主要な物語自体の虚構性や裏に隠れた真実を垣間見ることになります。しかし、独白自体が女主人公との関係(想い)から偏ったものである可能性があり、そこでまたどのように解釈したものか読者としては悩むことになります。物語空間の多様性と危うさはわかるのですが、この小説に関しては私自身よくわかったという感覚もないので、また十年後に挑戦だな。
「赤いクラブとの会合」
これもけっこうストレートな作品。最初の呼びかけの人称からして罠なわけですが、他の小説に比べるとずいぶん普通に思われるようになりました。やはりクラブは吸血鬼クラブなのでしょうか?
「メダル 一枚の裏表」
男女の関係を「メダル一枚の裏表」に例えての物語だが、三人称の部分と一人称の部分が微妙に入り混じる。普通に考えると、三人称の部分は出来事および心の動きの客観的な事実っぽい部分、一人称は「僕」から見た関係の記述なんだろうか?できなかった関係を「僕」が必死に美化して、それが必然であるかのように書いているところが笑えるのだがそれでよいのだろうか?だんだんそこまで注意して読む気力がなくなってきた。「メダル 一枚の裏表」は男女の間の比喩でもあるが、この小説の形式の比喩でもあるのだろう。
「通りすがりの男」
うーん、ショパンに対するイメージが変わりそう。つうかもともとショパンの曲は嫌いなのでよかです。どうも現代日本では革命および祖国という意識において理解できないもどかしさがあります。
「マンテキーリャの夜」
敗北するボクサーを客観的に見る立場から、そのボクサーのような立場に鏡像のように移るところがおもしろい。TKOまで鏡像的。なんだけど、ちょっとこういうのはボルヘスのほうが良いかも。