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July 30, 2004

●ダヤン・ゆりの花蔭に

ミルチャ・エリアーデはルーマニア出身の宗教学者であると同時に偉大な幻想文学作家でもあるのだが、私はエリアーデ幻想小説全集〈第1巻〉〈第2巻〉を購入して破産した。これで安心して積んでおくことができる。。。エリアーデの幻想小説では「ムントウリャサ通りで」が有名だし、実際傑作だと思うが、今回は十年程前に読んでずっとひっかかっていた「ダヤン・ゆりの花蔭に」を再読しました。これらは〈第3巻〉に入るはずです。

ダヤン」は100ページ強の中編、「ゆりの花蔭に」は40ページ強の短編で、いずれも晩年の作品。私にとってエリアーデの作品の遍歴はターナーの水彩画を見るようなもので、晩年になるともう具体画なのか抽象画なのかイメージなのかよくわからんが、しかし芸術以外の何者でもないのだ、というふうに思えるのである。ターナーの光の乱舞をモノクロで見ているようなもので、変な静謐感と何かが裏にありそうで手が届かないいらだちを感じます。

ダヤン」は、昔事故でで目に傷を負い、黒い眼帯をつけているためダヤンというあだ名で呼ばれる、最終方程式を考える天才数学者オロベテの物語です。さまよえるユダヤ人が現れたり、終末を暗示する啓示、最終方程式を解いたことによる時空の超越、といった物語と秘密警察や恐怖政治の物語がダヤンを軸として表象されます。また、その他にも数字による秘儀、預言者、死と再生など宗教的表象が内在され、いかようにも解釈できるけど、どれも自信は持てないような、不思議な小説。多分目の傷は聖痕であったり現代の預言者のあだ名が「ダヤン」だったり、マヤ暦の次の世紀が1987年だったり、夏至がこれから降り始めることを象徴的にあらわしていたり、日没の見えない少し扉の空いた部屋が、後のダヤンが入る療養所の部屋と重なっていたり、隠喩と象徴の塊であります。我々にはサインが啓示し続けられているのです。

もちろん療養所(実際は精神病院?)における言葉や行動はダヤンの妄想であるという解釈も可能ですし、二つの空間(あるいは世界線)があって、療養所で薬により自白を強要されている世界と、さまよえるユダヤ人と会っている世界とはある点で交差する異なる世界なのかもしれません。聖的な宗教的な物語と現代物理学のアインシュタインやハイゼンベルグの関係、最終方程式(統一方程式といっても良いだろうか?)の話、ゲーデルの公理の話がでてくるので、このあたりの知識を持っているとより楽しめるだろう。ゲーデルなんて不完全性定理の話を読んで以来だし、ほとんど忘れかけている。(昔「ゲーデル・エッシャー・バッハ」がはやりましたね。)

ゆりの花蔭に」は、亡命ルーマニア人のグループで、「ゆりの花陰で、天国で」という不思議な言葉による偶然でいくつかの出来事をたずねるために、ある部屋に集まってきて何が起こっているのかを勝手に話し合うような物語です。ここでも話がかみあっているようで全く根本が抜け落ちているような掻痒感にさいなまれます。この小説でも、出来事を偶然という解釈もできるけど、それを何らかのサインと見て何かが顕現しているのだと思うのかどうかは個人の世界の見方によるのであろう。ここではその人々が「ノアの箱舟」のようなイメージで異なる世界線への移動を行っているように、そしてこの世界ではなんらかの終末・日没をあらわす事柄が起きるような暗示して話は終わるのである。

一般の読者に関して言うなら「ムントウリャサ通りで」が一番物語性と抽象性と現実的な全体政治の話とのバランスが高度に保たれた地点にあるように思うが、「ダヤン・ゆりの花蔭に」ではより物語性を犠牲にしても抽象性や隠喩によるメタファーの度合いを高めているので、受け入れるのは難しいかもしれない。以前に「ゆりの花蔭で」のほうが心に引っかかるということを某サイト掲示板で書いたのですが、私がわかっていないからでした。やはり二つを比較すれば「ダヤン」のほうが深いし、何読にも耐える強さをもっているように思います。「ゆりの花蔭に」は印象的ですが、量的にも表象的にも「ダヤン」ほどには深くないようです。

ちなみにこの本だったか「19本の薔薇」だったかオビの推薦文で中沢新一がエーコと並べて書いていましたが、エーコと比べることはないだろうというのが私の考え。私の独断では、文学としてみたときには「エリアーデ>>>>エーコ」でございます。

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