●「あなたの人生の物語」memo
困ったことにノータイム購入リストに入っている法月綸太郎の長編がでてしまった。「生首に聞いてみろ」ということで、とりあえず購入。 綾辻逝人、法月綸太郎、麻耶雄嵩×2が出版されるとは、17年蝉が狂いなくが如くである。また数年沈黙するのだろうか?マーケティングして、ずらして出版してもらいたいもんだと思う。
現在バルガス=リョサの「フリアとシナリオライター」を読んでいるのだが、真中あたりでテッド・チャンの「あなたの人生の物語」に寄り道している。私の場合ミステリの割り込み順位は高い(流して読む)ので、ここで法月綸太郎がハイってしまうとリョサに復旧できるかどうか大いに不安。スタックオーバーフローの可能性大。
で、その上PS2で「Tales of Symphonia」など始めてしまったので、もー曲なんか触っている暇がないのである。しかもPCの「幻想三国志」もやりたい!そろそろ秋の夜長とはいえ困ったもんです。スカルラッティでお茶を濁しているとはいえ、どうにも乗り気でない。ま、そんなときはやらない、と。次はマンドリン合奏曲でも2つ3つ小品をと考えてはおりますが、何時になることやら。
以下は復帰が不安なので、とにかく「あなたの人生の物語」の途中メモです。
テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は短編集なのだが、某所での話題で「ゼロで割る」から読み始めました。構えて読み始めたこともあって、読むのに少々気合を入れすぎたようです。その後、先頭に戻って「バビロンの塔」「理解」を読んでいるんですが、驚きの終わり方を求めるのではなくて、もっと形式的な、小説の形と細部の美というか全体の形式感を楽しむのが良いと思った。さて残りの短篇で印象はかわるだろうか???
「ゼロで割る」は数学の形式体系内での矛盾を証明してしまった女性の話だが、AIやPrologのからみで一階述語論理や非単調推論、マッカーシーの局所最小化などを勉強していたのはもう15年程前であろうか?ずいぶん懐かしいのだが、ほとんど忘れてしまっているのが悲しい。ホルモンKの脊髄注射が必要だね。あの頃は「ゲーデル・エッシャー・バッハ」とかえらく流行ったですね。懐かしいのでもう一度読み直してみよう(こうしてコルーチン化していくのであった)。
「バビロンの塔」メモ
「ゼロで割る」の後にこちらを読んだのですが、これでテッド・チャンに関する見方をあらためました。つうか細部を突っ込んだり心理小説みたいにどろどろぐちゃぐちゃを見つけるよりも、小説全体を一幅の絵のように、全体の構図とその細部のデザイン、バランスを味わうもんだなと自らをチューニングして、テッド・チャン鑑賞モードに入っています。描写はクロウリーっぽいですね。
まあストーリーとオチはだいたいそんな感じかな、というところですが、全体の構図を見た場合にあんまり突飛なオチは好ましくないし、このくらいが一番バランスが良いのでしょう。各階での生活、荷車引き、太陽や星を越える、天球の天井、石の中を掘り進む、といった各場面の美しさに惹かれます。神の存在の問題はありますが、この世界の形の美意識自体が神の存在でありうるのでしょうか。
その後思ったんだけど、最後の瞬間にただの鉱夫が数学者に変わる瞬間があって、それが美しいのかと。アルキメデスが風呂からでて叫ぶようなもんだな。
「理解」メモ
知能の加速に関しては「アルジャーノン」などよくある?話なので、やはりそれをどのような形で小説にもっていくかということが問題になる。ここではその知能を内面(自己の芸術のため)のみに使用するか、外面(人類の幸福のため)に使用するかの対立のための道具としている。芸術至上主義か人間愛至上主義か、といわれると私なんか主人公のように完全に前者なのだが、小説的には外面の勝ち。その理由が自己中な見方のせいだつうのは、引きこもりはいかんよということだろうか?だけどチャン自身も芸術至上主義な人間じゃないのかなあ。
知能の戦いのために遅効性ウィルス(というか知能崩壊データパターン)をトロイの木馬的に忍び込ませるあたりはサイバーパンクの影響や士郎正宗的であるが、その外面的な表現がハードボイルドであったり西部劇の決闘パターンを適用しているのがおもしろいと思った。最初の水での遭難が最後に何か意味でも持ってくるかと思っていたが、全然違った。他の小説もそうなんだけど、美しくはまったパターンを楽しむものなので、突飛なオチはいらないんでしょう。
「ゼロで割る」メモ
とりあえず「ゼロで割る」を読みました。数論と形式論理およびゲーデルの不完全性定理の話のイメージがわからないと、レネーの喪失感はわからないだろうと思います。つまり、本文にあるように「大多数は機械的に証明をたどり・・・」とレネーが他の凡庸な研究者に感じているようなものと同様な読み方になってしまい、なぜこれほどまでにレネーが挫折するかが読み取れない(感じられない)恐れがあります。けど、、、これきっと伝わらないです。多分。SFファンの人も本当にわかっているんでしょうか?
数学における数論および形式的体系は公理といくつかの規則からのみ導き出される世界をさします。すなわち、a=b, b=cならばa=c とかですね。その他に三段論法と否定が入るわけですが、数論だけでその世界の文の真偽を判断できるかが大問題だったのです。しかしゲーデルは、本質的に真偽決定不能な文の存在、および体系内でその体系が矛盾しないかどうかは決定できない、と証明しちゃったんですね。数学はその世界内で安住していたのですが、レネーが「0で割らずに」証明したことで、体系内で矛盾を証明したことになり、すべての数論的な世界が崩壊したわけです。これは自分の数学感の崩壊でもあるわけです。これは抽象化された数論のモデルや1と2、2と3は等間隔なのか?などまじめに考えたことのある人でないとわかんないと思います。
もちろん公理系やルールをみなおすことはできるんでしょうけど、あまり特殊にしてしまうと、その体系自体が魅力がないので、あんまり研究しても意味はない。だいたい数学は簡素でないと美しくない。やはり数論で扱うような公理系が基本だし、おもしろいわけです。
さて、レネーの挫折感はちょっとうまい例えが思いつきませんが、たとえばガウディの聖サクラダ教会を親子三代で建設していて、費用も人生もすべてかけていたところで、実は設計図が6歳の子供の落書きであったことを発見してしまった、みたいなへなへな感とでも言いましょうか。まあ例がよくないですけど。
その崩壊感とそれを本質的には理解できずに読者の視点にいるカール(しかしなんとか別の意味で支えようとしている)は同じ立場になろうとしているのですが、そのためにはレネーの正当な方法ではなく、「0で割る」ことで(すなわち感情移入することで)しか同じになれない、というような関係にあるのだと思いますが。カール=読者的な位置なので、私たちもレネーに感情移入するためには「0で割る」ような操作が必要なのでしょう。
ただ、私はレネーのような研究対象を客体化できない研究者(多いんですよ、レベルは全然違うけど)はあんまり信用してないので、ふーんと思って読みましたが、まあこの話が読者にまともに伝わるとは思えません(笑)。数学的な部分、知っている人にはおおっと思うんですけど、普通わからんよね。ヒルベルトやゲーデル、アインシュタインの言葉の選び方もその認識の崩壊している部分の問題に直撃したないようなんだけど、これはこれだけで伝えるのは無理。テッド・チャンもわかってやっている確信犯のようですけど。
と、ここまで最初に思ったんだけど、テッド・チャン鑑賞モードの今からみると、いらないことまで考えすぎ。レネーとカールの距離感と差、そして「0で割る」ことによる二人の間の等号(統合)関係と小説の形式の一致を楽しめればよいのかも。数学では反則だけど人間関係では0で割ってみたほうが良いこともあるのかな。二人の所持金で割ってみるとか。
コメント
「バビロンの塔」についてちょっとその後考えたことを1行追加しました。
Posted by: なおき | October 4, 2004 08:32 AM