●マウントオリーブ
ローレンス・ダレルの「マウントオリーブ」ですが、「エジプト4人衆」の第3巻です。だいたい「ジュスティーヌ」のときに、ぼく、ジュスティーヌ、ネシム、メリッサの愛の行方はいかに(昼の1時より放映中)みたいなのりだったのに、第3巻のタイトルは第1巻にでてこないマウントオリーブですから。もう技かけすぎでダレルったらいやん、って感じです。
第3巻では今までできて、なんでだろう?と思っていた事件のつながりが見えてきて楽しい。しかもパースウォーデンがどんどん重要になってくるし、ぼんやりダーリーはアレキサンドリアの関口巽くんになっちゃってるし。ただ、その自殺の部分はやはり謎があるなあ。そうそうパースウォーデンさんの盲目の妹初登場です。パースウォーデンが愛していたのは実は・・・ジュスティーヌが愛していたのは実は・・・。そんな中で印象薄かったメリッサが、実は愛というものの本質を最も純粋な形で突いているかもしれないのが考えさせられるね。
さて、第3巻では「ジュスティーヌ」「バルタザール」のぼく(ダーリー)の一人称から離れた三人称の叙述形式で、マウントオリーブがかつて外交官になったときのホスナニ家とのつきあい、レイラとの愛の形から始まります。そして、アレキサンドリアというよりはエジプトとパレスチナをふくめた政治と陰謀の中の愛の形がおもしろい。ダレルは、この小説は相対性理論に・・・という話があって、最初の三作はそれぞれの座標を、最後の四作目は時間軸を表すといっているのが、まさにそのとおりで、楽しいなあとおもった。もう途中からは、ネシムもマウントオリーブもどうなっちゃうんだろう、とむさぼるように読んだもんね。
しかし、相対性理論とともに、これは愛の量子力学、愛の不確定性理論でもあるのだと思った。すなわち個人の愛を突き詰めるか、歴史・政治・民族・民衆の中での愛を突き詰めるかは、双方を同時の正確な位置付けはきっと不可能なんだろうと思う。特にこの巻でのマウントオリーブとレイラの愛は、個人をいくら突き詰めてもその中にはあり得ない形になっているのだから。
最後にマウントオリーブが、現実のレイラと会ってすべてが壊れるあたりは次の時間軸につながりそうな気がするし、変装して街へ出て子供の娼館で悪夢の思いをするのもやはりヨーロッパとアラブの異文明の間での断絶があるのだろうか?3巻ではナルーズの死が最後に象徴的に示されている。もしかして、本当にエジプト的であるもの、その中の良い部分が20世紀に死んでいく姿なのかなと勝手に思ったり。
前回こんなふうに書いた。
「ただ、ナボコフとかと比べると、上記のような小説の仕組みの舞台裏が見えちゃうのはちょっと困る。というか見えないほうが楽しくてよいと思うのだ。ナボコフはちゃんと舞台裏が笑えるようになってるからねえ。つうかナボコフでは舞台裏まで見ないと、実は一人芝居であるとか気付いていない可能性がある。それでも舞台の上ではおもしろいんだから。そういう意味では、やはり小説に目覚めて、平板な物語という世界から一歩踏み出す頃に読むと一生忘れられない本になるんだろうなあ。」
3巻まで読んだ感想は少し違っていて、実はこれもまた小説の仕組みの舞台裏を見てから「ジュスティーヌ」にたち戻って、その構造を笑えるんだという気になってきた。ダレルさんはやはり偉い。
そういう意味で言うと「ジュスティーヌ」は個人の愛のみの視点、「バルタザール」は個人の智からみた視点、「マウントオリーブ」は政治と民族と歴史からみた視点、となっていて、それぞれを表象する(小説世界の中で現実にすべてそうであるといわけではない)形の登場人物をタイトルとしていることに気付くと構成が明確になってくる。じゃあ第4巻の「クレア」はなんじゃろ?クレアの存在は全体の人々と愛を見つめる視線でありうるのだろうか?