●ナイチンゲールは夜に歌う
燃え上がったファンタジー魂をどうにかするために、ジョン・クロウリーの「ナイチンゲールは夜に歌う」を読んだ。うー、さすが、クロウリー、SFとファンタジーを掛け算したような満足感ですが、これ普通に読んでついていけるのかしら、とちょっと不安。
「ナイチンゲールは夜に歌う」はジョン・クロウリーの短編集で、以下の4作が入っています。ジョン・クロウリーは「エンジン・サマー」で泣かされましたが、キース・ロバーツの作品にちょっと雰囲気は似ているかも。
ナイチンゲールは夜に歌う
時の偉業
青衣
ノヴェルティ
「ナイチンゲール」はファンタジー、「時の偉業」「青衣」は結構ハードなSF、「ノヴェルティ」は小説作成にまつわるメタフィクションですが、どれもクロウリー流の詩的でイメージ豊かで哀しい物語です。
ナイチンゲールは夜に歌う
創世神話に基づく少々ありがちな物語ですが、ナイチンゲールの位置付けがおもしろい。知識を求めてしまったものと知らずにその中で暮らしているもの(そのかわり変化はない)の対立はよくあるのですが、ここでは第3の軸として、わかりはしないんだけど、知ってしまったものに興味をもつ(なぜかはわからないけど)ものを置くことで、片方の視点からではなく描くことができます。ナイチンゲールの歌は、変わってしまうことを知りながら、知識を求めてしまう人類への哀歌。でもナイチンゲールはただ歌っているだけなのですが。
時の偉業
歴史改変SFの傑作といわれていますし、そう思う。パラレルな宇宙の軸に基づく微小な変化による移動は本の小さな改変しか生まないが、それを無限に繰り返した時にその総和は、ファンタジーの世界に行き着くアイディアがおもしろい。無限小×無限回=どこに収束?というところです。
この世界軸は量子的多次元宇宙論に基づくと思うのですが、説明をある意味流しているので、読者全部がわかるかどうか。。。量子的多次元宇宙論ではシュレーディンガーの猫のパラドックスを多次元的にといたようなもので、量子的に事象が実際に起こるかどうかは我々から見ると確率的なのだが、宇宙的には実は両方とも実際に起こっていて、宇宙が分岐していくのだったような。観測する意識を持った我々はそのどちらかの枝でしか観測できず結果は確定するが、実はその瞬間われわれも枝分かれしていて向こうの世界では反対の観測結果が起こっているというものです。その積み重ねがこの宇宙をなしている、したがって選択というものには意味がなく、単に偶然どれかの枝に自分の意識がいるだけだという考え方。おもしろいけどさすがにイメージしにくいところはある。
が、まあそういうことはどうでもよく、「正義」というものを行う独善的な意識に対して、「もしこの世界に行き着くのならこの世界を消去してもらいたい」という賢人の言葉とその世界を見たことによって「正義」の独善性を気付いてしまった男とその哀しみの決断の物語なのであって、そこに泣けるかどうかで評価は大きく変わるだろう。上記のタイムマシンや設定はその表現ための「場」であって、それ以上ではないが、つうかなかなかそうは読んでもらえそうにない。
青衣
行動場理論による<革命>が達成された世界の物語。ディストピアと解説などで書かれているが、その世界をディストピアと思うかどうかは各人の感じ方によるのである。「気付いていない者」にとっては、それはディストピアでは断じてないのだ。それは今の日本のことを考えるとよくわかるではないか?
行動場と行動場理論で多分引っかかる人多いだろうなあ。上記量子論的確率に基づく決定論に思えるが、これもやはり主人公が、「行動場理論が行動場を支配している」のではなく「行動場が行動場理論を支配している」ことに気付いていく物語であって、信じていることと違和感の中で引き裂かれていく姿が哀しい。しかしこれは今から見た自分の昔の姿でもあるのだと思う。また最後に「すでに気付いている者」が登場するため、よりいっそう哀しいが、そこに救いの優しさを感じてまた泣くのだ。
ノヴェルティ
新奇なものと堅実なものというアイディアが小説に膨らむまでの物語。ただ、これも新奇なものと堅実なものの話ではなくて、主軸はそうであっても小説というものは場面のイメージや各断片が密接に詩的に総合されてできあがるのだということ。最後に語呂合わせのアイディアが画竜点睛だったりで、創造することの秘密、大きな主題からまことに小さな冗談までの詩的複合体であることが楽しい。
訳者のあとがきでは、新奇なものと堅実なものが作品集全体を通じてのテーマと書かれているが果たしてそうか?というよりは気付かない、あるいは堅実あるいは変化・知識を求めないものと、世界との差異に気付く者、あるいは気付いてしまった者の哀しみがテーマであって、時間や創造、新奇なものの話はまあ表象的なものだと思っておいたほうが良いと思われ。
クロウリーの視点は、単純に「気付いたもの」が進んでいるとかえらいとかいうわけではなくて、両者に平等に注がれている。そしてその視線は優しくて哀しくて美しくて寂しい。というわけで、その詩情と哀しみが感じられてこそ、クロウリーは私にとって唯一無二なのである。