●ケルベロスの第5の首
ジーン・ウルフの「ケルベロスの第5の首」を読みました。これは国書刊行会からの「未来の文学」として発刊。うーん、これは相当読み込まないとと楽しめませんね。叙述トリックについては、最近作品の質はおいといて新本格その他で嫌というほど見てきたのでもはや驚きはありませんが、各小説(3つの中篇からなる連作です)の主題は考えさせられるし(永遠の問題とはいってもさすがにちょっと古い気もするけど)、背景の構造がすばらしく、やはり傑作なんでしょう。
3つの中篇は、人間が移住した双子の惑星を舞台に、「名士の館に生まれた少年の回想」「人類学者が採集した惑星の民話」「尋問を受け続ける囚人の記録」が絡み合うゴシックミステリSF?です。サント・アンヌとサント・クロアは双子の惑星ですが、人間が移住して後、原住民(アボ)は絶滅したといわれていますが、果たしてそうなのか?第5号とよばれる「わたし」の存在とは?うーん、楽しい。
メタミステリ的なSFといえばよいのでしょうか?第1話は「わたし」による怪しい叙述がおもしろいし、第2話では民話の解釈ですが読後には誰が書いたのかという問題を含み、第3話は記録の細切れの断片から囚人の真相を読み取ることが必要です。また第2話は、クロウリーの「エンジンサマー」のような名前(ネイティブ・アメリカンのような)と文体内容ですので、なれないと読むのが大変かもしれません。
以下内容に触れます。注意。
以下は、全編を読んだ後の検討です。
「ケルベロスの第5の首」は一般的なクローンのものとして読むとそれほど違和感があるわけではないような気がします。もちろんクローンで実際に意識や記憶までがコピーされたとしたら「わたし」というものは何なのか?という問いは残るわけですが。ただちょうど70~80年代にはAIなんぞがはやりまして、「マインズ・アイ」とかで自己認識と同義性はいろいろ読んだり考えたりもしたので、今から見るとちと古い感じはあります。ただ、今現在にクローン技術として現実がやっと追いついてきたともいえます。
現実的には数多くの実験をして、成功検体(あるいは最優秀検体)のみを残して、他は奴隷として処分していたり、生体実験に使用していたということなのでしょうか?また最後は、父を殺しておきながら、やはり「わたし」の存在とその生物学的展開を夢見て第6号を作るのでしょうか?一番最後の文章のわたしたちがわたし+ミリオンのことなのか、それとも第6号その他なのかが解読不明でした。
それよりも私としては「サント・アンヌ」「サント・クロワ」の歴史と現在の関係が気になります。、片方が奴隷制を維持していたりで、その構造の差こそがアボが浸透していたりの差なのかなと思ったりして。でもマーシュ博士がV.R.Tであるのはよいとして?、ネリッサに惹かれる部分から見るとネリッサもアボ(あるいはその血筋)なのだろうか?という気もするし。一番謎なのは、マーシュ博士をアボかアボのハーフと見抜くところ。偶然?ではないですよね。「閉ざされたコミュニケーション」とかかれていたので、一種のテレパシー的な能力を発揮したのでしょうか?この能力が原住民の能力の退化したものとすれば「わたし」も原住民でないとはいえなくなってしまう。
次の話にもかかわるのですが、屋敷が古びているのは、もっと古代からこの一族だけが移住していたともいえます。
「ある物語 ジョン・V・マーシュ作」はV.R.Tであるところのマーシュが書いたものと考えています。あ、もちろんこの創作は第3話の内容の反映はあると思いますよ。で、他のサイトにはあんまり書かれていないんですが、私はフランス人入植者がくる以前の、すなわち第1話の冒頭にあった、より古代に入植していた頃以降の話と解釈しています。男の子がすべてジョンと呼ばれるのは、もしかしたらマーシュの名前から取った創造とも考えられますが、私としては聖ヨハネ(ジョン)関連の古代入植者にしたがって(あるいは「名前」を教えられて)、全部ジョンと呼んだのだと思いたい。丘人、沼人、影の子ともに古代入植者の退化した姿であって、影の子はいまだに宇宙船と「歌」(電波的?)によって連絡する手段をもっているが、丘人や沼人は退化しきっていると。また影の子は自ら文明を捨て麻薬的な草を抱くことになったので、宇宙船の飛来をとめているように見えます。
そんな中で丘人の砂走りは影の子と「心」による信頼関係を結びますが、それによって「歌」や「共通意識体」に加わることになり、老賢者(その人々の共通意識による意見や考えを宇宙船の中の知識を通して送り返してホログラムのように実体化したもの)の意識の中にも含まれているといってよいのではないでしょうか?この推測の補足は以下に関連します。
「V.R.T」はある程度の謎解き篇で、結構明快に書かれているので、マーシュをV.R.Tがなんらかの状況で殺害し入れ替わっているというのは、良いでしょう。このあたりはもう少しあいまいでも良かったと思います。
気になるのは「退化した機能は復活することはなく、もはや新しい進化で補わなければいけない」という部分で、そうであるなら、アボはかつては生物としてうまく道具を使用し文字を書けたが、退化のために書けなくなったという意味になり、かつては入植者と同等(の能力)であったと解釈できます。これと同じような意味で「ルェーヴの公理」は、私の意見では「すべてがホモ・サピエンスの進化(あるいは退化)したものであり、自分たちだけを人間と呼んでいる(ので根本的に分離する意味がない)」というものではないか、と思っています。公理ですから。だって原住民を人間と認めたら略奪できないですからねえ。
そういう意味では、第2話がSF的な設定の一番の要であり、ハードSFを全く裏返してファンタジー(あるいは神話)にしてしまったものであり、第1話と第3話はガジェット的にはSF的な要素もありますが、その設定に基づく一般の小説と取る事もできます。秘められた入植史がそのままSFとしての王道を行っているような気がする。(自分で壮大に虚構的な読みをしてます)けど、その歴史を考えているサイトや意見ってあんまりないので聞いてみたい。
根本的に双子世界の入植者と原住民の関係がどうなっているのかは想像でしかないのですが、やはり異なるバランスあるいは政治に関連しているんだと思われ。
また、第1話の麻酔療法に関しては、第2話終わり近くで影の子が麻薬?を噛んで東風の体内に直接入れることで、砂走りとの入れ替えを行うことに対応しているのでしょうし、入れ替わった結果、第3話での丘人(=自由の民)の祖が東風ということになるのでは。したがって第1話で何のために麻酔療法をしているかというと第4号と第5号の転移を目標としている?うーん、深い。
以下おまけ
全体として、ゲーデルの不完全性定理を文学にするとこんな感じかしらんと楽しかったです。なんせどれが真かはテクスト内では証明不可能な気がするし、結局は読み直しを要求されました。私自身も、確かに昔だったら読めなかっただろうなーと思うが、変なミステリいろいろ読んだおかげで叙述トリックや世界再構築だけは慣れちゃったからなー。でもそれが作品の完成度とは全く異なるんですよね。「ケルベロスの第5の首」はやっぱりド偉いのだと思う。
もちろんミステリとしては読めるし、わたしとは?というSFテーマとしても読めるんですが、壮大な人類入植史SFとして読みたい私です。