●「ケルベロス第5の首」の追加
まず全体の前提について
第2話で遠い昔の移民が影の子になっていった原因となる、「葉は幅広で、いぼがあり、灰色だ。花は黄色で、種はピンク色の棘がある卵だ」という雑草が、人間(アボも含めて)の精神的な拡張(精神的な感応力や一部物質を動かすところまで)をもたらし、種としての精神共有体(考えも記憶も)にまでいたることができる、ということが前提になっています。丘人(自由の民)の中には、かつての能力のためか、この薬を使用しなくても精神感応力を持っています。
歴史的にはフランス系初期移民が明示されていますが、実際にはとても遠い昔(というか第1話の設定が我々から見ると遠い未来かもしれない)に、フランス系ではない移民が行われています。原移民の中には上記の薬による精神の拡大と精神共有体としての種族への進化(あるいは肉体的な退化)した影の子が存在し、彼らは精神の歌(波動)をあわせ、共有することで歌い、他の種族の歌を読み、また影響を与えることができます。精神の共有は記憶も含まれています。これらの記憶や知識は幽体としての「老賢者」で現れますが、それは精神の共鳴を読むことができるものにのみ見ることができます。影の子達の個々の思考や知識ではなく、精神波動の総体として存在しています。
フランス系初期移民がくる前には、サント・アンヌには影の子の他に丘人、沼人と呼ばれる原住民がいます。第1話、第3話でアボと呼ばれているのは主に丘人(=自由の民)をさしています。第2話の物語の時代(=フランス系初期移民がくる直前)には、お互い自分が人間で種族は別だとみていますが、より昔の移民の末である可能性は高い。なかば忘れて栄えている者が丘人であり(名前からしてイギリス系の移民の末でしょう)、なかば覚えており衰えていくものが影の子をさしていると思われます。
全体的に個の意識の問題が取り扱われ、クローンにおける意識の問題(第1話)、双子における精神共有体の存在性(第2話)、完全変体における個の問題が表立っては記述されますが、もうひとつ裏には、種としての精神共有体と個の問題が語られます。
サント・アンヌとサント・クロアは相当に近く、原住民はサント・アンヌのみ、サント・クロアへの移住後200年程度とされていますが、これはサント・クロアの政体(全体主義的)による歴史改変が行われていて、植民前歴史というものの存在を許していません。また原住民が存在しなかったかも不明です。また、第3話で近いうちの戦争が予感されているようにサント・アンヌとサント・クロアの政体は異なると思われます。サント・クロアのほうが全体主義のように思われる。が、この話にはわたしの解釈はもっと変なもので、それは第3話の最後に書きます。
「ケルベロス第5の首」
「父」は「わたし」(= Gene Wolf)をクローンとして作成し、それは数世代行われています。また、すべてが成功しているわけではなく、優勢遺伝子をうまく発現させ、「父」とうまく同レベルの個体を第5号として育て、それ以外は奴隷に売り飛ばしたり、人体改造の実験をしています。しかし完全にうまくコピーされた個体は親を殺害してしまう。その理由は、個々の意識を共有し、個人の自我を侵食されることが許されないことにあるのではないでしょうか?
そのため、「父」は娼館の女や客がトリップするのに使用している薬を利用して、「わたし」の精神的拡張をおこない、「父」と「わたし」およびその後のクローンも含めての精神共有体としての存在を目指して、薬物療法を行います。これは本当に思っていることを話させる自白剤としての役割を持ちます。この副作用として精神感応力や夢を見る(精神が他を飛び回る、2部で言うと星渡りを行う)能力を発現させていますが、一方「わたし」としてはそれを嫌悪し、抑えています。
また「父」はこれらの娼館の運営や「薬」による遊びの治療などのために、サント・クロワの政治運営体と密接に関連しています。「わたし」を含めこれらの治療を行うのは父殺しの問題もあるけれど、もっとも優性な個体は同じ軌跡をたどり、父殺し、放浪、犬の館での研究、次世代の作成という同じループにはまり、生物としての発展性や次の次元への展開がみえない状況を打破することにあって、自分が殺されるかどうかはまあその次あたりかなあと。
マーシュ博士(V.R.T.)が来訪しますが、彼は自由の民のハーフであるため、精神感応力があり、思考や記憶を読むことができます。そのため「わたし」がクローンであることが即座にわかったようです。逆に「わたし」がマーシュを立ち去らせるために、信じてはいなかった(精神的な回路、歌)を開くことによって、マーシュが原住民か原住民のハーフであることを知るのでしょう。
「ある物語 ジョン・V・マーシュ作」
V.R.Tであるところのマーシュが、第3話の6月4日の記述にあるように、それ以降に練習として書いたものか、逮捕後に書いたものでしょう。時代的には、フランス人入植者がくる以前の、すなわち第1話の冒頭にあった、より古代に入植していた頃以降の話です。というか、この話自体が、影の子が星船の飛来を止めていたのをなぜやめたのかという現代史の創生神話となっています。最後に出てくる三人がフランス系初期移民であり、武器を持たない挨拶をしているのでしょう。しかし丘人は昔の地球人の挨拶の仕方をもはや忘れています。ここからフランス系初期移民の入植史が始まるわけです。なお、この部分はそのまま第3話でトレチャードの話の中にでてきます。
男の子がすべてジョンと呼ばれるのは、古代入植者にしたがって(あるいは「名前」を教えられて)、全部ジョンと呼んだのだと思いたい。丘人、沼人、影の子ともに古代入植者の末裔で「なかば忘れて栄えている者」であり、影の子は「なかば覚えており衰えていく者」であります。影の子は草によって精神共有体として精神的な進化をしていますが、他種族も含めての心の「歌」に干渉することができ、自己保存、自分たちの楽園を守るために、星船の飛来を長い間とめています。ただ、丘人の中には独自に精神的な進化を行って、「歌」を聴くことができたり「歌う」ことができたりします。そのため、沼人の「星渡り」は丘人からつれてくる必要があるのです。
そんな中で丘人の砂走りは影の子と「精神共有体」の中に入る信頼関係を結びますが、「老賢者」の意識の中にもその強さに応じて含まれることになります。「老賢者」はユングの元型の老賢者を元にしていると思われますが、影の子が死ぬ(減る)につれ、砂走りの精神および種族記憶の影響が大きくなっています。
したがってこの物語は、影の子の薬による夢見の時代が終わり、新しいフランス系植民と丘人の時代になる神話になるわけです。また第2話の終わりで、影の子が噛むことで、草を東風の体内に直接注入することで自白させようとすることは第1話での薬物治療につながるでしょう。
「V.R.T.」
V.R.T.の物語自体は、資料の古さから逮捕後数年~十年経っていることを思わせます。
「退化した機能は復活することはなく、もはや新しい進化で補わなければいけない」という部分は、アボはかつては生物としてうまく道具を使用し文字を書けたが、退化のために書けなくなったという意味であり、かつては入植者と同等(の能力)であったと解釈できますので、第2話での丘人が古代入植者の末裔である考え方を補完します。「ルェーヴの公理」は、私の意見では「すべてがホモ・サピエンスの進化(あるいは退化)したものであり、自分たちだけを人間と呼んでいる(ので根本的に分離する意味がない)」というものだろうと思われます。
またトレチャードが「十二世代目の沼人」で東風が最後のシャーマンであったとすれば、200年程前の話としては全く整合性があります。直接の子孫であるか、種族の子孫であるか、あるいは人間なのかは確定できませんが、沼人側の伝説を引き継いでいる。またその民話はそのまま第2話の物語を移民の視点から話しています。
士官と奴隷の関係は複雑ですが、この奴隷がV.R.T.であって、最後にそのまま釈放しないことにして、「ポート・ミミゾン」へと逃がすようです。奴隷のほうは表に現れずともその意図がわかっているようなので、カッシーラへの好みからしても、この士官自体が自由の民の血筋でしょうし、奉仕させそれを許す司令官もそうではないかという疑いがあります。実のところサント・クロワの支配層が実は自由の民の流れで存在し、その考え方に基づいて政治を行っているようです。ただし、表にはでず、フランス人が負けた後も実作業はほとんどフランス人にやらせているようですが。
薬物による真実の自白の話はここでも出てきているので、第1話の傍証となります。