●祈りの海
「アレキサンドリア四重奏」に今ひとつ入り込めず、だらだらと「ジュスティーヌ」を読みながら、他の本も読んでます。というわけで、グレッグ・イーガンの短編集の「祈りの海」が先に読み終わった。まとまなSF久々じゃのう。。。ってテッド・チャンを最近読んだんだっけか。で、推薦されて読んだのですが、うーん、ちょっとね。
なぜSF本をそれほど読まなくなくなったかをつらつら考えてみると、サイバーパンクが流行って、ちと食傷気味かつつまらないと思い始めた頃に、ちょうど自分で海外現代文学を読み始めて、こんな面白いものはないと思っちまったせいなのだろうと思ふ。「ニューロマンサー」はクールな言葉とかAI的な内容もまずまず面白かったんだけど、「カウント・ゼロ」であれっていう感じで「モナリザ・オーヴァードライブ」になると、もうどうでもいいです、って感じでした。それでもギブスンはまだ良いほうだと思っているので、他のサイバーパンクは言葉とかっこだけで内容があまりにもなくてもうあんまり読む気なかったし、サイバーパンクといえばもう士郎正宗が一番だと今でも思っているくらいだ。食傷気味のところへラテン・アメリカ文学やピンチョンのような本が存在することを知ったんだから、そりゃそちらに転ぶわな。
で、グレッグ・イーガンやテッド・チャンが90年代最高のSFといわれていても、全然知らんのです。失われた10年ここにあり。というわけで取り戻すべく、しかしそんな意気込みもなく読み始めたら、最初はおもしろかったんだけど、後へ行くほど、登場人物(特に主人公)の類型化、小説の型としての類型化、にうんざりしてきて、最後はどうでもいいですってかんじだった。
これはもちろん個人的なものになるが、サイバーパンク的な言葉の過剰で空疎な飾りがないのは良かった。しかし、最後のほうへいけばいくほど、主人公(ぼく)の精神レベルの低さに唖然というかがっくしという感じ。つうか中高校生の頃に読めばきっと主人公にも感情移入できて感動すると思うんだよね。だけど、扱っている科学テーマは中高校生じゃ無理かもしれんし、難しいところだ。小説としてはジュブナイルなんだけど内容が高度って感じ。対象者いないじゃん。
テッド・チャンとどちらが好きかといわれると、今のところ詩的で静的な部分と小説としての形態でテッド・チャンの圧勝というのが私の感想。テッド・チャンとの比較で言うと、テッド・チャンはSF的素材をどう料理すると「小説」という形で最高に表現できるか料理方法を選びに選んでいるのに対して、イーガンのは全部ゆでているだけ見たいな感じです。SFとしてのアイデアはすごくよいのに、小説表現としての形式がおいつかない。もちろん個人的な感想なんですが。
【注意】以下ネタバレあります。
貸金庫
萩尾望都の「バルバラ異界」の1,2巻を読んでいるところだったので、どうもイメージが抜けきれず。いや、話はそんなに似ているわけではないんですけど。「彼」の検査後の話とかがないのが良かった。もし仮にわたしの肉体だとしても、もはや「彼」とは個体認識としては一致していないんだろうなあと思う。どうでもよいことかもしれないが、細かく書かれているので気になることを一ついうならば、千人の赤ん坊について場所をもらったとすると、最近引っ越してきた人間への今回の転移はおかしいんじゃないか?という気がする。
キューティ
あまりにしつこいので、まあだいたいオチはわかったんだけど、4才で死ぬから人間としては扱われずというのは人間の傲慢さのようで、分かれた奥さんには同意できても、「ぼく」には賛同できないので全然感情移入できず。だいたい生命の中で人間様が偉いと考えていること自体とってもイヤだ。というわけで、作品としてはわかるが、作品としては嫌いだ。生命に責任をもてずに、ただ自分の快楽のために回りを犠牲にするこういうバカはいっしょに死んでよいと思う。いやいっしょに死ぬとキューティーのほうがかわいそうか。
ぼくになることを
チューリング・テストを自分自身が自分自身に行うとどうなるか、という感じであろうか。そこまでして自己?保存をしたいという感覚がないのでよくわからないなあ。別に子供も嫌いだし、自分としての種は継続しないわけだけど、それが地球上の環境見たときに問題あるよりは良い方向だと思うし。この世界子供は増えていくんだろうか?とするととっても嫌だ。
繭
ジェンダーの問題って70年代のSFにもたくさんあってあんまり好きじゃない気がするけど、これは性差別の問題について理論上賛成、でも深層的には反対というのが明快でよいと思った。まあ同性愛発生の生物学的システムのあたりがSF的なんだけど、どうもそこまで個の問題と感じられるんだろうかとちょっと疑問。
百光年ダイアリー
時間軸が逆転している銀河との通信方法はよくわからず。しかし、政府や企業が巨大回線を使用し、個人にテキスト送信帯域を割り当てているのがおもしろいと思った。最初ちょっと「あなたの人生の物語」的かなと思ったのだが、帯域もあるし全然違う話だったのです。結局政府も企業も裏でなにやってるかわからん、日本書紀は政府側だから蘇我入鹿は悪人だったのかわからんということですな。世界の真実を垣間見るというのはわかるんだけど、それまでの主人公があまりに幼すぎて笑っちゃう。
誘拐
これも「ぼくになることを」のように人間の全データをシミュレーションするような構成ができた場合に、それはどうなるのか?という話なんだけど、一ひねりして個人の中の他人のデータの再構築というのがおもしろかった。そりゃ理想化されているわなあ。もし奥さんもスキャンしていたら将来いったいどうなるんだろうか?これは「愛」なのか「自己愛」なのか?V.が語るV.の中の「セバスチャン・ナイト」のようでおもしろいね。
放浪者の軌道
メルトダウンってニューラルコンピュータの焼きなましみたいなもんじゃろか?アトラクタという言葉からだいたい想像していたんだけど、ストレンジアトラクタの世界を人間でやるとこうなるというのはわかるが、あまりにもストレートにやりすぎじゃないだろうか?しかもカオス的な軌道が存在するなら、よりパターン化が難しいわけだし。ほんの微差で多大な結果の差が出る、ある意味バタフライ効果みたいな話なんだけど、それが心底わかっていないと笑えないしねえ。宗教・自由と物理的なアトラクタの結びつけはおもしろいけど、結局宗教であることも自由と思っている宗教であることも同型なのであって、登場人物の行動と感情にはトランスできず。
ミトコンドリア・イヴ
はい、もう、そろそろワンパターンなので感想はありません。もちろんアイデアはおもしろいが、主人公の心理的な軌跡には全く同意できず、これだけ宗教バカと精神的バカを集めておいて、しかも最後が「愛」だと?読者をなめるにもいい加減にしろという感じなのです。
無限の暗殺者
はい、これももし仮にのうえにもしかしたらを積み重ねているので、論理的には何の意味もありませんね。カントール集合や測度ゼロを持ち出すのは良いのだが、みんなそれをどう小説という形式の上で効果的に表現するかを悩んでいるだろうに、何も考えずべろんとだしましたって感じ。萩尾望都の「銀の三角」はおもしろかったよなあ。。。「渦」の表現は少し面白い。
イェユーカ
ええ、周囲がお膳立てしてくれて、最後にほんの簡単なしかも自分に損のない決断をしたつもりで、善行為にひたっている最後は全く許せない。不快感200%。この後は口止めのために射殺されるのが筋だと思う。
祈りの海
これもねえ。後で麻薬的な存在物によるっていうのはわかるけど、その前は天使が計算して、、、ということ自体証明できていないからなあ。ベアトリスさまうるさすぎ。一歩間違えばストーカー的である。「キューティー」や他の作品でもそうなのだが、最後のオチで反転するためにしつこく書いて、逆に前のほうでばればれになっているというド下手パターンじゃないか?宗教については言いたい事はいろいろあるが、泥沼になるのでやめておく。最後の「神という考えは意味をなさん」をもし主張したいのならば、もう少しそこに意識して文章をもっていかないと無理だろう。
全体的に、イーガンって本当にSF以外の小説まともに読んだことあるの?って感じなので、なんでSF界で人気なのかがよくわかりません。うーん、他の3冊読めば納得いくかなあ。いや、自分の受容体がおかしいんでしょうが、ラファティはいうまでもなく、昔のレムにしろストルガツキーにしろティプトリーJrにしても小説として今読んでもおもしろいのです。テッド・チャンは確かにおもしろかったけど、イーガンとこのあたりが90年代の最高峰なら、私にはやはりSFという分野はもう必要ないかも。逆にイーガンの作品を読んで、テッド・チャンの発表数の少なさに妙に納得したりした。