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January 04, 2005

●三つのブルジョワ物語

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年末年始はみたいTVもないので、ドラクエVIIIと曲の修正と読書で終わったのだった。5日間短い!読書に関してはそろそろ何をいつ読んだかわかんなくなってきたので、時系列の読書録のページを作った。右のリンクにも入れておきます。

さて、ホセ・ドノーソといえば「夜のみだらな鳥」が有名で実際に悶絶するほどおもしろいんだけど、さすがに「夜のみだらな鳥」ほど期待しちゃいかんかなーと思いながら「三つのブルジョア物語」を読んだらこれまた悶絶するくらいに面白かった。

集英社文庫版で読んだんだけど、ラテンアメリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」で「ブルジョア社会」という題名で入っているのは同じ作品だっけ?まあ自宅で調べりゃ良いのですが、いずれにせよ持ち運び用には文庫が良い。この集英社文庫版のラテンアメリカシリーズは他の作品も含めてどれも持っていて損はないと思うんだけど、もうほとんど品切れですね。

さて、「夜のみだらな鳥」に関しては幻想文学というよりも妄想文学というジャンルを作ったほうが良いなーと思ったりしていて、しかしこれだけの作品は作家からすると場外ホームランというか一期一会的なもんだろうか、と勝手に思いこんでいた。「三つのブルジョア物語」は紹介文を見るとスペインの上流階級の話だしコメディっぽいので、普通の小説なのかと思ったら、相変わらず妄想来てます。なんでこの現代の話で妄想できるのか不思議なくらいにドノーソは天下一品の妄想作家でもあったのだった。ただ、もちろんたんに妄想だからおもしろいのではないけど。

この3作は登場人物が一応少し共通している疎結合な連作みたいになっていますが、独立しても読めると思います。最初は普通の夫婦の恋愛関係や憎悪に行くのかと思ったら、もうドノーソさんに振り回されっぱなしで、ひょえーとかいいながら、なんでこうなるのと思いつつ、シチュエーションコメディのようなおもしろさでございました。ブルジョアはブルジョアなりの妄想を膨らませてるし。また、読み終わってちょっと考えると、話の筋自体は小説としてよくありそうなネタなんだけど、最後まで振り回しきってくれるあたりなかなかの豪腕です。

その違いはやはり構成やバランスが良いのは当然ですが、登場人物の視点のパラノイア的な展開、小物・小技の使い方がきわめてうまい。プロの小説家やなあと改めて認識。「夜のみだらな鳥」も勢いだけで書かれたものではなくて、大リーグボール養成ギブスで鍛えたような強靭な足腰(小説家としての基礎技術)があってこそ、と言うことですな。ドノーソおもしろいので、そのうち積んである「隣りの庭」も読まなきゃいかんなーと思った。「デルフィーネのための四重奏」も翻訳されないかなー。

おもしろかったので、野谷文昭氏の「ラテンにキスせよ」(自由国民社)をぱらぱらみてたら、ドノーソのインタビューが載っていてこれもおもしろかった。アジェンデやバレンスエラを所詮アマチュアと言っているところが妙に納得できて笑えた。そうか、私自身アジェンデの「精霊たちの家」は確かにおもしろかったけど、その後エバ・ルーナすら読む気になっていないとか、バレンスエラも読んだんだけどあんまりぴんとこなかったなーというのは、そういうことだったのかと妙に納得したのでした。もちろんここでのアマチュアの意味はすんごい高いレベルの話で、ドノーソ先生によると日本の小説なんかほとんどはアマチュアの域にも達していないということでしょう。うひゃひゃ。この中編集は小説を作るための教材としてもとっても役に立ちそうだなあ。日本ではそんなのないんだろうけど。

以下毎度の如くネタバレ含みます。

チャタヌーガ・チューチュー

シルビアがほとんど機械人間のように書かれているのが面白すぎる。夜のっぺらぼうに口の形をつけてあげると話し始めるあたり、比喩といえば比喩なんだろうけど比喩とは思わずそのまま受け取るほうがおもしろいのだ。このあたりやヴァニシング・クリームで男性自身を消すあたり畸形的な感じで「夜の・・・」に近いのかと思ったら、夫婦というか男女の間の従属関係を主張しておいて、最後に綺麗にひっくり返すのが面白いね。

粗筋だけだとどこにでもありそうな小説なんだけど、歌にしろトランクにしろ化粧にしろ小物の使い方がいやんと言いたくなるほどうまい。やはり女が上手ということだろうか?チャタヌーガ・チューチューの曲を思い出せんのはちょっと悲しいな。わかったのはヴァニシング・クリームは凶器だということだわ。

緑色原子第五番

男女の従属関係に続いては「モノ」を所有することでの従属関係なんだけど、これまた絵の使い方や何時の間にか絵の題名のはずが住所だとなっていたり、これもいやんな上手さである。もっともこのあたりを上手と感じるかやりすぎ下品と感じるかは紙一重なんだろうなあ。二人がモノが消えていく状況を心の中で一番安直に「合理化」していくのがおもしろいね。二人の間はモノで成り立っていたはずではないんだけど、マンションを買ったことで急に所有意識が表面化したんだろうか?この話も、もし仮にみたいな感覚から、読者にあたかもそうでなければならない、ように読ませるのが技術の粋みたいなきわどい感じである。

夜のガスパール

少年の成長の物語とも読めるんだろうけど、なんかそのまま読んでいたほうが面白いんだろうなあ。シルビアも第1話にでてきたシルビアとは思えないほど人間化しています。息子を自由に、といいながら反対の方向で束縛しているのが面白いね。

確かに16歳でラヴェルの「夜のガスパール」を口笛で演奏するやつはいやみかもしれんなあ。ボウエンの少女に続いて思春期の少年だって外の世界をすべて敵とする自分の世界を持つのだ。最後は入れ替わりとかドッペルゲンガーの話になるとは全く想像もつかなかったが、これも口笛(曲)が二つの世界をつなぐいい役割をしている。ダブルの話としてだけみるとありきたり、っぽいけどその叙情性と終わり近くまでそれを気付かせずに一気に持っていくところを楽しもう。

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