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March 11, 2005

●遊戯の終り

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フリオ・コルタサルの短篇は邦訳されているものは全部読んだはずなんだけど、ほとんど覚えていない。再読したはずの「通りすがりの男」ももう記憶が怪しいんだけど、メモも残しておきたいので再読していこうと思う。「遊戯の終わり」は昔引越しでか誰かに貸してかで手元からなくなっていたんだけど、最近古本で2冊購入。どちらもきれいなのでよかった。リストには載っていないので、アマゾンへのリンクはなしです。

有名な「続いている公園」が入っていることと、コルタサルを最初に読んだ本ということもあってこの本の印象は深いんだけど、作品を考えると後期の静謐な感じはないし、あまりに微妙な部分もないので、今読むとけっこうふつーの「変な幻想小説」のように思えちゃう。いや、それほど普通でもなくやはりコルタサルはコルタサルなのだけれど。自分的には今は後期の作品のほうが好きかもしれぬ。ボルヘス風な部分も中途半端というか未消化で残っていたりという気分です。でもこれって体調やなんかですぐ変わりそうだわ。

ただ、最近は初期の作品でも「動物寓意譚」のほうが好みの作品が多い。なんか「遊戯の終わり」のほうがまとまりすぎているのかね。今読むとだいぶ不満が多いけど、高度なことを要求しすぎなのかなあ。コルタサルを読むときは脳みそのチューニングによる「コルタサル脳」の活動と心の感度を高くした「コルタサル感度」を100倍に上げる必要がある。が、「遊戯の終わり」はそれほどしなくてもわかりやすいという点があって、今の自分には不満。でもコルタサル入門にはちょうど良いのかもしれない。自分的には今日は「誰も悪くはない」「殺虫剤」などが好きだが、これはそのときそのときの感覚で変わりそうだ。

以下コルタサルはやはり読んでからにしようね。

続いている公園

岩波文庫のコルタサル短編集にも入っているし、2ページだし、有名なのでいまさら書くこともあんまりないんだけど、話の飛ばし方とかちょっとおもしろい。テープの早送りをしている感じ。いつのまにかテープが絡まってメビウスの輪になっちゃったつうところでしょうか。緑のビロードの椅子が印象的。こういう小物の使い方が上手いね。

誰も悪くはない

急いでセーターを着るというありふれた状況が、どんどん異様に切迫していき、右手が異界の生き物になったりするところがおもしろいなあ。

これもまるで「水の中のような」という表現と本当に「水の中の」表現をブリッジにして一挙に現実をひっくり返すのがおもしろい。。。んだけど、まあそれだけのような気もする。彼女にもう少し感情移入できると良いのだけど、あんまり書くとひっくり返せなくなっちまうし。同じコルタサルの「遠い女」をちょっと思い出した。が、一転する小説の仕組みとしては「夜、あおむけにされて」「山椒魚」などに近いのだろうと思う。

殺虫剤

「ぼく」の世界が孔雀の羽根をみつけることでがらりと一転するところがおもしろいね。悪意のように地下に殺虫剤が広がっていくイメージがあるんだけど、もうひとつ、本文でしつこく「殺虫剤の機械にはさわらせない」といっていた部分がイメージの中で反転するところが怖い。今度彼が来たときにはどんな事件が起こるんだろうか?でもこのあたりはそのまま読み流すこともできるので各人のアンテナ次第だろう。アンテナ感度が高すぎると誤読と妄想を重ねることになります、、、が、それはそれで何も感じないよりはおもしろいだろうと思う。

いまいましいドア

いつものごとく解釈はいくつもあるんだけど、やはり怪しい解釈にしておいて、その状況の方に安心してしまうのが楽しいだろうと思う。

バッカスの巫女たち

音楽ファンのほうが楽しめるかな。確かに「ドン・ファン」「海」「交響曲第5番」なんて、あり得ないような演奏会で笑っちゃう。だんだん状況が変になっていくところが面白いと言えば面白いんだけど、ちょっと宙ぶらりんな感じに思った。なんか読み落としているかな。最後の赤い服の女のニヤリが意味深いんだろうか?わからん。

キクラデス島の偶像

ラブクラフトみたいなかんじですが、1行の記述で状況を一転するのがおもしろい。それだけ。

黄色い花

輪廻と生と死に関して、妄想ではあるのだろうが、それが真実の切れ端だとして感じると黄色い花と人生との対比が美しくてよいと思う。のだが、なんか仕事に疲れていて、そこまで心が共振できなかったよ。最後の説明と感覚はボルヘス風な感じなんだけど、どうも黄色い花との詩的なあるいは印象的な構成とはうまく合ってないような気がする。

夕食会

ある事象だけ時間がずれているというかなんか量子現象をマクロでみているようでおもしろい。手紙でやり取りしているので、読者に対して最後に日付に注意を払わせるあたりはちょっとニクイ感じ。最後の夕食会の中止も人間関係の中止、ひいては因果関係を絶とうとしているような雰囲気を漂わせていますね。

楽隊

「アルバルガタス楽隊」がとんちんかんで笑っちゃうです。で、ビオイ=カサーレスの「大空の陰謀」を思い出したんだけど、やはりこれも最後あんまりうまくないような気もする。ボルヘス風なネタの割には現実的な楽隊の記述がおもしろいわけで、ちとうまく着地できていないような気がする。最後の最後も取ってつけたような感じだし。

旧友

どうもこういうのはボルヘスのガウチョ風のものを思い出して、その流れにあるのかなと思ったりする。そういうものはどう読んでいいのか実はあんまりわかっていなくて、マテ茶が心底味わえないとぐっとはこないのかなーと思ったり。

動機

これも同様。

牡牛

現在と語っている内容と時間軸が相当はなれてそうなのに、まるでほんの少し前のように語るのがせつないなあ。

水底譚

ポオ風というか小さな怪奇譚というかこぎれいにまとまっている感じ。

昼食のあと

なんだか読んでてせつなくなってくるので良かった。「あの子」ってどんな感じなんだろう、と想像を広げるところが怖い。実はとっても年上なんだろうか?でもそんな想像の上での「ぼく」のなんだかせつない心の動きがいいね。

山椒魚

ある瞬間や一文を中心に状況を逆転させるのは、この本では「キクラデス島の偶像」とか「河」なんだけど、それと同時に山椒魚が怪しい人格を持っているようにみえておもしろい。最後の終わり方でちょっと立場や状況をかき混ぜているのはくすっとは笑えるけど、感動するほどでもないかな。

夜、あおむけにされて

これもよくありそうな話なんだけど、仰向けにされてみんなが覗き込んでいる映像が2パターンぐらいで浮かんでくるのってやはりきますね。ちょっとブラッドベリの「群集」を思い出した。つながりは覗き込んでいるあたりだけなんだけど。

遊戯の終り

三人の関係が壊れる感じがすごくいい。「少女というのは私たちにとって異生物で、少女から見ると私たちの世界は異世界なんだなあと思った。その心の動きや切り口を鮮やかに示してくれていると思う。萩尾望都の初期のマンガみたいだ。。。でもそれは男の子同士の世界だったから、「マリア様がみている」という感じかしらん(読んでない)。これらを読むと異生物的少女に興味を持つが、そうなるとハンバートに一歩近づくのかもしれず。」とエリザベス・ボウエンの感想で書いたけど、ここでも引用しておこう。

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