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February 01, 2006

●巨匠とマルガリータ 第2の書

book-Bulgakov-03.jpg第1の書に続いて、ミハイル・ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ 第2の書」を読んだが、こいつはすごい、すごすぎます。これだけどたばたに書きながら、最後はハ・ノツリとピラトのことが、巨匠とマルガリータのことが、弟子の詩人(最後は教授になってますが)のことが、モスクワの人々ことが、そしてヴォランドやそのつれのことが心に残るのはなぜなんだろう。。。最後はメタフィクションに突入するとは、もうやられまくりました。というわけで久々に星5つということで、「フリアとシナリオライター」以来の満点でございます。「フリアとシナリオライター」は誰にでも安心して推薦できたけど、今回はそうでもない。そうでもないのだが、しかし、この本は読まれるべきではないか?そして、共産主義や民主主義といった政治、自己憐憫的な宗教を越えて、自分はどう生きるべきなのかを考えるというか感じる必要があるんじゃなかろうか。

さて、「第1の書」では悪魔のヴォランド一党がモスクワに現れてのどたばたと、全体がよくわからないイエスとピラトの話が主で、主人公である巨匠はちらりと精神病院で現れるにすぎずマルガリータにいたっては巨匠の話の中に現れるだけでしたが、「第2の書」でははじめからマルガリータが主役でぶっとばします。魔女になったり巨匠を助けるために大活躍で、もう大舞踏会のシーンなんかおもしろすぎる。ついでに女中と豚も。

悪魔のヴォランドがかっこよすぎ。知的で聡明でなんでもわかっている感じ(というか本当にわかっているんだけど)。まず一般人の小悪党的ないじましさやそれにたいするある種の報いはあるんだけど、イエスの宗教との対置を考えると、どうもヴォランドの方が冷静で聡明に、しかも正しく見えちゃうんですよね。そういう意味ではどうしても宗教は感情の中にあって、あくまで感情的なものにみえちゃうんだけど、ヴォランドの方が正しいようにみえるのは、すべてを上からみて描いている作者の視点と近いからかもしれん。やっていることは残忍だったりめちゃくちゃっぽいんですけどね。そう思うのは最近ニーチェの「アンチクリスト」(超訳のような感じで「キリスト教。。。」で講談社+α文庫でているんだけど)を読んだせいでもある。

また、最後に巨匠とマルガリータがあの人の方ではなくヴォランドの方でやすらぎを得るというのも、なんというかいいなあ。光に当たっていると紫外線が強そうだもんね。この場合は精神の光かもしれないけど。とすると知性は闇なんだなあ。ぼくは闇をとることになるわけだ。

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