●デス博士の島その他の物語
ジーン・ウルフは疲れる。少なくとも2回は読み直しを強要されるからで、いやーんなんだけど、1回読み通しただけでわからないとその隔靴掻痒感はより一層いやーんなので結局読み返すのだ。だから一冊読むのに 2~3 倍時間がかかるんですー。ついでに書く量も増えちゃう。
ただ、遊べる範囲からいうと「ケルベロス第五の首」のほうがいろいろ突っ込みどころがあっておもしろいかもしれません。「デス博士の島その他の物語」は「接続された女」のほうで読んでいたんですが、やはり「島三部作」まとめて読めるのはうれしい。また、前に読んだときよりはいろいろなことを発見しているようだよん。「アメリカの七夜」もSFマガジン買いながらほっておいたからなあ。どれも良いのだが、「眼閃の奇蹟」は、へえーこんなふうなのも書くんだあと新しい発見があったのと、なんか暖かくてよい。特に最後は心に残るよ。ということで、「アメリカの七夜」までは星4つくらいかなーと思ったんだけど、「眼閃の奇蹟」を加えて星4.5。
で、どうおもしろいかというと体内4パスコンパイラが動くわけで(ということは4回は読む?)、おもしろいんだけど疲れるのであった。久々に脳みそ使ってみて、ああ、やはりおいらの脳みそは役立たずであるなあ、と思わせるおもしろさである。だいたい読み始めればナボコフ症候群を発症し、あの言い回しもこの言い回しも全部怪しい、書いてるやつは信用できねえ、頭文字集めると文章になるんじゃねーかとか、いらないこと考えまくり。
そりゃおもしろいんだけど、読めば読んだで脳の空回り具合もひどいので一年に一冊くらいが手ごろだなあ。しかし積んである「新しい太陽の書」なんぞは4冊あるわけで、毎年一冊じゃ筋も登場人物も覚えておけないし。。。自己矛盾。というわけでSFっぽいものが続いたんで、次は他の分野を読もうと思ふ。
で、このあとはやはり触れちゃうかもしれませんが、読んでも何言ってるのかわからないから大丈夫かもしれません。
まえがき
「島三部作」の書かれた当時のいろいろなことがわかっておもしろい。ついでに「島の博士の死」も入ってるし。なんか軽いお茶うけみたいな感じだが、ちょっとふわっとした感じで好きだ。最後に二人の受講生の関係が暗示されてるようでいいなあ。博士の死と受講生の関係が生としての再生の関係なんじゃろか。言葉の組み合わせで行くとあと2種類だけど、それは言葉として難しいのかな。
デス博士の島その他の物語
現実に侵入してくるランサムやデス博士がおもしろい。最後その現実といいながらもう一段虚構のレベルに落とすところが面白いのですが。各人が登場人物に対応しているランサム=大人のタッキー、デス博士=ブラック先生、タラー=母なのはすぐわかるんですが、その他にランサム=大人のタッキー、デス博士=いない父親、タラー=母という関係も二重写像のように写しこまれているんですね。こちらのほうは前に読んだときは見逃していたな。母バーバラの覚醒剤?の話も絡めて、子供から見た世界認識とあやふやな性への感覚とがごたまぜになって、なったままなのがよいな。それは「私」が自由に考えるのであった。
二人称には大人になったタッキーからの呼びかけ(=大人のタッキーが筆者?)という説もあったけどどうだろう?
アイランド博士の死
一転してSF的な設定で、結局全部が死も含めて治療だというのがおもしろい。全体的に侵入の仕方とか「デス博士の島その他の物語」と反対に設計されているんですね。これも「死と再生」(彼女の死、彼の再生、少年の「死と再生」)なんだろうな。もともと三部作で構想されたものとは思えないので、これくらいの疎な感じが良い気もする。
死の島の博士
不死の世界での死神は?というマーゴット博士がおもしろし。最後の瞬間はやはり「死」なんだろうな。マーゴット博士は幻影?でも実際に死神が不死の世界に復活してきたと考えるとおもしろくてよい。それに比べるとディケンズの登場人物の侵入はナイフの話も絡めてけっこうわかりやすい。もちろん冷凍睡眠とかSF的なガジェットで再生の話はあるけど、これはやはり「死」が主題かな。
アメリカの七夜
いろいろな疑問渦巻く中篇でございます。表面的には日記の最後のイヤーンな感じが予定調和的ですが、問題はそのテキストの表面の物語の裏が気になって困るのでございます。
・日記はどこまで信用できるのか?
・本当にどこかで一夜足りないのか?
・卵菓子は本当になくなったのか?そもそも幻覚剤は本当?
・幻覚剤があるとしてその効き目は1日なのか?
あたりからはじまって
・そもそも1週間あるというのは日記内の一言の情報?タイトルはメタ情報だよなあ。。。
・そもそもなんのためにアメリカにきたのか?
・すでに船の上で避けている?追われている?
・そもそも日記の入手状況がわからん
のを考えると表面的な話はあるものの、やはり死と再生の物語が裏にあるのでは無かろうかという気がする。アメリカに来た理由はどうだろう。写本絵画を盗みにきたという説もあったけど、そうかなあ。。。
さて、他にも考えられるけど、最近気に入っているのは
・もし卵菓子に幻覚剤がはいっていたとするなら、最後のパラグラフが記述の状況も内容も幻覚的なものではないだろうか?最後のアーディスの記述や「警察」の言葉のあたりである
・でも、その前のパラグラフでここまで執拗にもし最後の・・・と書いているのは、その前のアーディスに関する記述が虚構(幻覚)でないとナダンが主張するためだけに「作られて」書かれている気がする
・とすれば、ナダンがなんらかを隠して伝えるためにそのあたりを卵貸しも含めて書いてきたのではないか。。。卵菓子の話は実際に食っていたとしても、ナダンが姿を消す言い訳のために食っているのでは。しかも幻覚剤なんかないことを承知の上で。
・で、復活祭のテーマと奥地の怪物がもともと人肉食でそうなったなら現在そうなっていてもおかしくはないので、遺伝子的に「きれいな」ナダンはその対象とされているとか。それでこそ復活祭のイエスに比類できるよねえ。ナダンを追いかける、あるいは奥地に連れ込もうとするのはそうなのかなとか。
・ナダンの「この病みおとろえた国を訪問する理由」はよくわからんけど、何らかの理由で奥地に入ろうとしていたのではないか?日記はその部分いろいろとカモフラージュしているけど、追わないでほしいということと、奥地に向かったというメッセージだけが伝わるようになっているとか。
まあいずれにせよ、全部嘘から全部本当の間でどのあたりが落ち着きどころかは難しい、というかわからん。マッカーシーのサーカムスクリプションを実習している気分でございます。作品自体はすばらしいと思うのだが、解釈で遊ぶときには「ケルベロス」程度の制約はないとゲームが成立しないような気がする。
でも復活祭のイメージなどからして、ナダンをイエスになぞらえての死と再生(彼の世界からの消失と別世界(アメリカ?)での再生)と思いたいんだけどちょっと無理めかな。ただ聖なる生贄としての象徴にはなっている気もする。宗教って嫌ーね。ああ、「聖なる生贄」になるために訪れるという一種の自殺説ってありうるのかなあ。
眼閃の奇蹟
途中まで読んでやっと、ああ、あの作品へのオマージュかあと気づいた愚かな私です。眼が見えていても何も見えて無いということですね。ノームの王あたりで気づいたんですが、あの作品群小説としては読んでないので、いやーんな感じです。でも作品的には最後が明るいので、とっても好きだ。まじめに考えると全然明るくはない気もするが、でもとってものびやかで暖かい気がする。もちろん技巧的にもすごいなーと思う(ライオンと踊っているあたりから徐々にわかってくるあたりがうますぎる)。このほの暖かさは最初の「デス博士の島その他の物語」に対応するのかな。