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August 29, 2006

●琥珀捕り

book-Carson-01.jpgなんといってよいのか、小説なのかはたまた究極の語りなのか、キアラン・カーソンの「琥珀捕り」は、琥珀やオランダや人魚やその他いろいろなものへの薀蓄と物語の一大交響楽である。拡散していく語り(=騙り)のなかに、陶酔するのがよかろう。Aの副題から始まりZの副題で終わるこの小説はしかし終わりがあるわけではなく、細やかにつながる物語とイメージの中で新しい物語を読者の中で産み増やしていくに違いない。

さてこの迷路のような物語をただただ酔いしれるのも良いけれど、より味わうには、フェルメールの絵画集、ローマ・ギリシア神話の本などをちょっと横に積んで、暑い昼下がりに京都の和菓子(この和菓子に関しては後で触れることとする)など準備して、思うがままに1章づつ、読み終われば思うがままに読み返すのが良い。私としては4.5、他の好事家にはぜひ押し付けたいと思うのである。物語の迷宮に酔いしれよ。

キアラン・カーソンはアイルランドの詩人であるということだが、まさにケルト的な奇想、奇態な小説を味わうことができる。琥珀・・・の話であるような、変身物語であるような、薀蓄の集まりなだけであるような、一般の小説とは反対の拡散する話の中に漂う快楽を覚えることができる。もちろんただ単に列記したのでは小説にならず、この小説としての構成の多くは語り口の技術によっていると思われる。まさにこの表に見えるようで相当細やかな技術はまさに琥珀彫刻の名匠の技を見るようである。そう、私は最近拡散する物語を読みたかったのだ。。。(もっともエリアーデの第二巻を持ってきたので「ムントウリャサ通り」で拡散してもよいのだが)。そして、このA-Zで始まる副題を持つ語りは、集中して読むのも良いが、少しづつ味わって行くのも良い。そう、とろけるような夏の昼下がりにお茶でも味わいながら。もちろん茶菓子が必要であるが、この小説を読むにはやはり京都の和菓子がよかろう。しかも琥珀がよい。

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京都で琥珀といえば、夏のお菓子である。寒天を元にしたものが琥珀と呼ばれるようで、その涼やかな感覚が好まれる。これは琥珀でできている棹物(さおもの)で、「星づく夜」は亀屋清永の夏の和菓子である。ものによっては練物の上に琥珀をあしらったものもあるのだが、これは全体が透明で月や星の見立てが美しい。

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しかし、より宝石のような夏のお菓子としては干琥珀(ほしこはく、かんこはく)と呼ばれるものがある。例えば、左の「水の精」は亀屋清永、右の「琥珀」は二條若狭屋のもの。そのほか夏の京都ではこのような干琥珀が涼やかに店頭に並ぶのである。冷やして口に入れると、まわりの砂糖のシャリシャリとした感じと中の寒天のふんわりとした感じをほのかな甘さのなかで味わうことができるが、これは味わいというのがただ味のみでなく食感や見た目が大きな影響を与えることの証明に他ならない。また、各店で似たようなものでありながらわずかながらの食感や甘さの違い、その細やかな感覚がまた食べ比べて見たいという郷愁をよぶのである。

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中では永楽屋の琥珀菓子はスマートでよりしゃれた大人向きの味わいのものである。上は「柚子こごり」という中に柚子の皮を入れた琥珀を粉砂糖でまぶしたもの。下は「重陽」で左から抹茶、小豆、紫蘇の琥珀である。また、単に柚子やグレープフルーツの皮を煮詰めて入れたものもあり、これらは単に甘いだけでなく柚子のわずかな苦さやそれぞれの香りや味わいが、食感とともにゆっくりと口に広がるのである。このように「琥珀」という課題をこのような和菓子に表現したのもまたひとつの芸術といえるであろう。

というわけで京都の「琥珀」に関する薀蓄はおしまい。夏のお菓子なので気になった人もそろそろ手に入れることはできないだろう(永楽屋のものは手に入るかもしれないが)。また来年の夏にはフェルメールの画集とローマ・ギリシア神話の本と琥珀菓子とを用意して、ゆっくりと読むのもよいだろう。

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