●寺町御池
今日は四条通りもJUGIAでCDを買い足す。自分的にはノリントン祭になっているが、やりすぎかも。さて、そういえば先週家族は寺町三条などつれまわしたんだけど夜だからあんまり写せなかったのでフォローしておこうと思いもう一度まわってみた。
寺町通りを北上して御池通りの手前には本能寺がある。もちろん織田信長の最後として有名なわけですが、当時の場所は壬生のあたりで、この場所へ移転したのは豊臣秀吉の京都再構築プロジェクトによるものですな。ちなみに応仁の乱以来京都中央部は荒廃し、一条より北と五条より南にしか民家はなく野原のようになっていたのを戻し始めたのは織田信長の頃のようである。右は寺の裏手にある信長公の墓所。
木屋町御池を少しあがると大村益次郎遭難地の碑がある。左の写真の左側で、ちなみに右側は佐久間象山の遭難地の碑である。大村益次郎は司馬遼太郎の「花神」で有名で妹が大好きのようだが私も好きだ。なお、このあたりに長州藩の京都藩屋敷があったようで、碑の向かい側には元長州藩の控え屋敷であった建物を使用した料亭「幾松」が。こちらは桂小五郎ですなあ。
ほんの少し北には高瀬川一之船入があります。高瀬川は慶長16年(1611)頃角倉了以が開いた運河で、鴨川に平行して十条まで南下し,伏見京橋で宇治川に合流したらしい。木屋町の名はこの辺りに材木屋が多かったことに由来するようですね。
そのまま二条から河原町通りを丸太町まであがり、御所のほうへ。その角が寺町どおりなのですが、少し下がると下御霊神社があります。もちろん怨霊を祀るための神社で、主祭神は、藤原吉子、伊予親王、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷神の八所御霊である。元の場所は出雲路のほうであり、やはりいろいろと場所を変えて豊臣秀吉の区画割りでいまの場所になったらしい。さて特に怪しいのは火雷神で、井上内親王の三子ともされるが、なぜ第三子が火雷神なのか?また賀茂氏の伝説で、玉依媛が加茂川に流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命であるが、その丹塗矢が火雷神という話もあって、時間軸的にはあわないので同一とはいえなくても似た属性を持っているということなのであろう。
コメント
「大村益次郎遭難の地」はこんなのだったのか。大きいなあ。
夜の木屋町通りはシックな感じでよろしかったけど、昼もまたいとをかし、ですね。
Posted by: しづ | October 31, 2006 06:44 AM
明るいときにも一度は観ておきたいですなあ。大村益次郎の碑は大阪にも緒方洪庵とともにあるので行くべきでは。
Posted by: なおき | October 31, 2006 11:20 PM